神癒

[マタイの福音書 8:16,17]

 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
  「彼は私たちのわずらいを担い、
  私たちの病を負った。」

聖書 新改訳2017


私は今の時代においても神癒や奇跡が起こり得ると信じている。

もちろん、金儲けや特定の教会だけの発展のため、あるいは自身の生活や名誉欲のために神を騙る牧師もいないわけではないので注意しなければいけない ✢1

しかし奇跡も含めて心から信じなければ信仰を持つ意味が半減する。スピリチュアルさに欠けた信仰のあり方で心からの信仰を保つことは難しい。どうしてもこの世的な科学至上主義が入り込んでしまうからだ。   ✢2

聖書になぜイエスが起こした奇跡がたくさん書かれているのか?これは単に比喩的に書かれているのではない。少なくとも福音主義的には事実として捉える。

偽預言者や詐欺師、カルトをその実によって見分けながらも、しっかりとした福音主義で私は生きたいと思う。

[マタイの福音書 7:15,16,17]

 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。

聖書 新改訳2017

[へブル人への手紙 13:8]

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

聖書 新改訳2017

[コリント人への手紙 第二 4:18]

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

聖書 新改訳2017


✢1什一献金(収入の10分の1を献金すること)の強制や特定聖句を引用してでの脅しは論外。私の個人的経験から言って、このことが引き金となって洗礼を躊躇ったり教会を離れる日本人は相当いると感じている。残念なことに一部の牧師はこのことを信仰心の欠如や物惜しみとして捉える傾向もある。筋違いも甚だしい。それらの問題かどうかはそれぞれの経済状況などによって変わってくる。

✢2一般的に、自由主義神学は奇跡を比喩や象徴として扱うケースが多い。そのため奇跡そのものはそれほど重要なことではなく愛や道徳心こそが大切だと説く。妄信的信仰に陥りカルト化することを防ぐためかもしれない。しかし創造論やイエスの復活、奇跡や神癒などを否定してしまうと『希望』も半減する。そして最終的権威が神ではなく人間(牧師や団体の考え方など)に移ってしまうこともある。本来、目に見えないものを信じるのはクリスチャンの特権であるはずだ(※第2コリント:4:18)

聖書に従う③

 柔らかな答えは憤りを鎮め、
 激しいことばは怒りをあおる。


 穏やかな舌はいのちの木。
 舌のねじれは霊の破れ。


 悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。
 心に楽しみのある人には毎日が祝宴。


 激しやすい者は口論を引き起こし、
 怒りを遅くする者は争い事を鎮める。


 よく相談しなければ、計画は倒れる。
 多くの助言者によって、それは成功する。


 正しい人の心は、どう答えるかを思い巡らす。
 悪しき者の口は悪を吐き出す。


 訓戒を無視する者は自分自身をないがしろにする。
 叱責を聞き入れる者は良識を得る。


 主を恐れることは知恵の訓戒。
 謙遜は栄誉に先立つ。

[箴言 15:1,4,15,18,22,28,32,33]

聖書 新改訳2017



「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。

[ルカの福音書 22:42,43]

聖書 新改訳2017



イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

[ルカの福音書 23:46]

聖書 新改訳2017

そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」[ルカの福音書 24:38,39]


聖書 新改訳2017



イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」[ヨハネの福音書 20:29]

聖書 新改訳2017

※適用

神の霊感で書かれた知恵の書である箴言からも多くのことを学べる。

時に言うは易し行うは難し…だが、キリストに倣う姿勢は大事。キリストは父の御声にいつも従った。

聖書に従う②

[コリント人への手紙 第一  3:16,23]

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。


あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。

聖書 新改訳2017©2017

[コリント人への手紙 第一  6:14]

神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。

[コリント人への手紙 第一  6:18,19,20]

淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。


あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。


あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

聖書 新改訳2017

[テモテへの手紙 第二 2:16,17,21,22,26]

俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、
その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。


ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。


あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。


悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。

聖書 新改訳2017

適用

洋の東西を問わず、巷では不道徳なことが普通にまかり通っている。特に今の世の中はひどい。気をつけないと知らず知らずのうちに簡単に影響を受けてしまう。

基本的に世の中は、部分的には悪魔によって支配されているわけで、自ら進んで神を求めないと染められてしまう。敬虔なクリスチャンを目指すぐらいでちょうどよい。

福音主義的に祈る



はじめに神が天と地を創造された。
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

[創世記 1:1,2,3]
聖書 新改訳2017

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

[テモテへの手紙 第二 3:16]
聖書 新改訳2017

最近つくづく思うこと。

福音主義神学的な信仰と自由主義神学的な信仰ではその在り方が根本的に違う。聖書は神話ではなく、現実の話だ。道徳の教科書でもない。

現実だから感動するし、ありがたい。

現実だから力をいただけるし、感謝もできる。

現実だからキリストと聖霊を通して神からのメッセージも受け取れる。

現実だから奇跡を信じる事ができる。

もし聖書に書かれていることが本当でない(部分的には真実だけど部分的には神話etc…)としたら、どうしてわざわざ日本人である私が外国の宗教を信じる必要があるだろう?仏教にだってよい教えはたくさんあるし、神社仏閣を見て回るのも悪くない。

それでもクリスチャンでいるのは、まず、この世界を創られらたのは神であること。奇跡や復活も含めて聖書に書かれていることが真実であること。それを信じているからだ。

因みに私は今でも宗教的に排他主義ではない。宗教的包括主義の立場だ。

それには一言では言い表せない深い理由がある。浄土真宗のお墓で眠る両親のことを鑑みても。

ただ福音主義的な信仰で祈る姿勢だけは大切にしたい。このことだけは決してぶれてはいけない。信仰の根幹に関わることだ。かつてリベラル的に信じようとして信仰がぐらついた経験があるからこそ尚更そう思う。

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。


 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。


神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。


[コリント人への手紙 第一  15:14,20,57]
聖書 新改訳2017

*ブログを再開するにあたり、英語投稿から日本語投稿へ切り替えることにしました。