不動心(静寂)を勧める聖書の言葉



 横たわるとき、あなたに恐れはない。
 休むとき、眠りは心地よい。


 にわかに起こる恐怖に、
 悪しき者たちの来襲に、おびえるな。


 主があなたの頼みであり、
 足が罠にかからないように、守ってくださるから。

[箴言 3:24,25,26]
聖書 新改訳2017



イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」


[マルコの福音書 4:39,40]
聖書 新改訳2017



「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

[ヨハネの福音書 14:1]
聖書 新改訳2017

福音主義的に祈る



はじめに神が天と地を創造された。
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

[創世記 1:1,2,3]
聖書 新改訳2017

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

[テモテへの手紙 第二 3:16]
聖書 新改訳2017

最近つくづく思うこと。

福音主義神学的な信仰と自由主義神学的な信仰ではその在り方が根本的に違う。聖書は神話ではなく、現実の話だ。道徳の教科書でもない。

現実だから感動するし、ありがたい。

現実だから力をいただけるし、感謝もできる。

現実だからキリストと聖霊を通して神からのメッセージも受け取れる。

現実だから奇跡を信じる事ができる。

もし聖書に書かれていることが本当でない(部分的には真実だけど部分的には神話etc…)としたら、どうしてわざわざ日本人である私が外国の宗教を信じる必要があるだろう?仏教にだってよい教えはたくさんあるし、神社仏閣を見て回るのも悪くない。

それでもクリスチャンでいるのは、まず、この世界を創られらたのは神であること。奇跡や復活も含めて聖書に書かれていることが真実であること。それを信じているからだ。

因みに私は今でも宗教的に排他主義ではない。宗教的包括主義の立場だ。

それには一言では言い表せない深い理由がある。浄土真宗のお墓で眠る両親のことを鑑みても。

ただ福音主義的な信仰で祈る姿勢だけは大切にしたい。このことだけは決してぶれてはいけない。信仰の根幹に関わることだ。かつてリベラル的に信じようとして信仰がぐらついた経験があるからこそ尚更そう思う。

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。


 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。


神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。


[コリント人への手紙 第一  15:14,20,57]
聖書 新改訳2017

*ブログを再開するにあたり、英語投稿から日本語投稿へ切り替えることにしました。